【聖書交読】 民数記6章22~27節(旧約p221)
司)22:主はモーセに仰せになった。
会)23:アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。
司)24:主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
会)25:主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
司)26:主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。
全)27:彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。
【聖書朗読】ルカ2章15~21節(新約p103)
15:天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16:そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17:その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18:聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19:しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
20:羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
21:八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
【説教】「救いの君の名は」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
主の新しい年、2023年明けましておめでとうございます。元旦であり、今年最初の主の日を迎えております。今年もよろしくお願いします。
昨日の大晦日、思わず紅白歌合戦をほぼはじめから終わりまで見てしまいました。今回は本当に音楽が大事にされていて、なおかつメッセージ性が強く、共感しながら見通すことができました。こんなに見入ることはほとんどないのですが、それだけ内容がよかったということなのでしょう。
それと、あくまで個人的な感覚ですが、歌詞の中に「信じる」という言葉に関連するものがいくつか出てきたように思えまして、そのことが印象的でした。この難局を、信じて希望を持って耐え抜こう、という強い思いが表れているように思いました。皆さんはどんな風に新しい年をお迎えになられましたでしょうか。
本日は元旦であり、なおかつ教会の暦では「主の命名日」と呼ばれています。天使たちが離れ去るところから、本日の福音書の物語は始まります。天使が共にいてくれるような夢のような昨日は過ぎ去り、ふと我に返って現実に引き戻される今日が来るのです。
ですが、それは新しい出発の時でもあります。天使のお告げを聞き、天の大軍の賛美の声を聞いて大いに励まされ、羊飼いたちのように、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と旅立つのです。
それは目的のない旅ではありません。「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という言葉にあるように、私たちは、そこここにある主のみわざの出来事をつぶさに見るために、出かけるのです。
しかも、「見ようではないか」という呼びかけにあるように、その道は一人旅ではありません。温かい「つながり」のもと、同じ希望に生きる仲間たちとの旅です。困難の多い旅路でも、一人ではなく、仲間がいれば耐えることができます。そして、互いに励まし合うこともできます。
その旅において、私たちは救い主に出会います。彼らは救い主を礼拝したわけでもありません。その時の感情も、はっきり記されているわけではないのです。しかし、天におけるすべての栄光を脱ぎ去り、か弱い幼子の姿で自らを現されたイエス様の前にして、その崇高なお姿に、思わずひれ伏してしまったのではないでしょうか。そして、「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)と言われるぐらいですから、その背後には喜びの感情があったのではないでしょうか。
幼子を探し当てた羊飼いたちが喜びにあふれて賛美しながら帰って行った後、「八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた」(21節)とシンプルに命名の事実のみが報告されますが、「これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」と注釈が付くことによって、一転してこれがマリアとヨセフの主に従順な貴重な行動であることが明らかになります。救い主の到来が「お誕生」という形をとることによって、その親の信仰の姿が私たちのもとに伝えられるようになります。主に忠実な親の許に生まれた救い主が、主に忠実にその役割を果たしていくのです。
その救い主が「イエス」と名付けられた。この「主は救い」という名は、やがてすぐに「主は救う」という主の実力を示すようになり、事実、私たちを救ったのです。このように、「救い」という名詞から「救う」という動詞に変わっていくことは、クールで概念的なものから、熱く拍動する、生き生きとした動きへと転換していくことも表します。この方を、イザヤ書/ 9章 5節の「平和の君」、これは讃美歌の112番、「もろびとこぞりて」にも歌詞の中に出てきますが、それになぞらえて、「救いの君」と今日は呼ぶことにします。救いの君の名はイエス、すなわち「主は救い」であって、そしてそれが「主は救う」となって動き出し、まさに私たちの間に来て、私たちを救い、約束の神の御国へといざなうのです。
この2023年、この方が共におられるので、天使が離れ去り、ふと現実に帰る時にも、私たちは変わらずに、絶えることのない慈しみと、尽きることのない憐れみを受けて、また新しい歩みを続けることができます。その中で、主がなしてくださったことをつぶさに見ながら、信じる仲間たちとともに歩みます。それがあるから、私たちは今年も継続する目標、「変わらない主の恵みを共に分かち合おう」に向かって、恵みを共に分かち合いながら過ごすことができます。そうやって一年を送って行ったら、どんなに将来に希望があることでしょう。これはご存知のように、エレミヤ書/ 29章 11節の御言葉をもとにしています。このような御言葉です。
「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書/ 29章 11節)。
新しい年を迎えたからと言って、先行きが不透明に近いことにはあまり変わりがありません。昨年2月から始まったロシアのウクライナへの軍事侵攻はとうとう年を越してしまいました。隣国からのミサイルは、昨日大晦日も昨年37回目の飛翔を見せましたし、コロナのこともどうなるのか、まだわかりません。人々の間に半分強制的に隔てを作ったコロナですが、実は人付き合いのややこしさをやや忘れさせていた側面もあったのかもしれない。それが、段々と交流が戻って来るのに合わせて、人に会えない寂寥感は失せていくものの、新たな軋轢が生まれてくる可能性だってある。その、一見秩序のないような中にも、私たちにはすぐわからないとしても一貫して主の御計画があり、それは平和をもたらすものであって、同時に将来と希望を与えるものである。そして、なぜそれが実現するかと言えば、それは「主は救い」、そして「主は救う」とその名の実質が変遷していく救いの君がおられるからに他なりません。
「救いの君の名は」という本日のタイトルは、もちろん新海誠監督の2016年の大ヒット映画、「君の名は。」になぞらえているわけですが、この映画では、最後に主人公の男の子と女の子は、互いに相手の名前を忘れていってしまいます。その意味でも「君の名は」ということなのですが、私たちは救いの君の名は忘れません。「主は救い」。そして実質的に「主は救う」となって、私たちに、この世に希望をもたらす。このことを胸に抱いて、新しい年のスタートを切ろうではありませんか。
新年の祈祷文に沿ってお祈りいたします。
すべての国の人々をみこころに留め、支配しておられる主よ、あなたは今日(こんにち)まで私たちの国を守り、みこころにかなわないことを見過ごしてここに新年を迎えさせてくださいました。どうか今年も私たちの国を祝し導き、様々な悪と災害を防ぎ守ってください。また私たちが互いに親しみ、おのおのその務めを尽くし、みこころにかなう社会を築かせてください。慈しみ深い主よ、私たちも、他の国の人々も、みな神の国の民となり、ともに主の栄光を賛美し、主を知る知識が地上に満ちる時を速やかに実現させてください。
イエス様のお名前によってお祈りいたします。
アーメン
【報告】
・先週はクリスマス礼拝でした。クリスマス献金は目標を上回る額がささげられました。感謝してご報告します。
・本日は元旦でなおかつ今年2023年最初の主日礼拝でした。今年もよろしくお願いします。礼拝後、お茶会の交わりがあります。
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