【聖書交読】 詩編103編1~8節 (旧約p939)
司)1:【ダビデの詩。】わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって/聖なる御名をたたえよ。
会)2:わたしの魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。
司)3:主はお前の罪をことごとく赦し/病をすべて癒し
会)4:命を墓から贖い出してくださる。慈しみと憐れみの冠を授け
司)5:長らえる限り良いものに満ち足らせ/鷲のような若さを新たにしてくださる。
会)6:主はすべて虐げられている人のために/恵みの御業と裁きを行われる。
司)7:主は御自分の道をモーセに/御業をイスラエルの子らに示された。
全)8:主は憐れみ深く、恵みに富み/忍耐強く、慈しみは大きい。
【聖書朗読】ルカ13章10~17節(新約p134)
10:安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
11:そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。
12:イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、
13:その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
14:ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」
15:しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。
16:この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
17:こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。
【礼拝説教】 「いっしょに喜ぶ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
物事の本質、という言い方をすることがあります。これは、何かの物事を見たときに、そこに本質的な部分とそうではない部分がある、というように、物事がいくつかの部分によって構成される、という感覚です。物事の中心部分とそうでない部分、という言い方をすることもあるでしょう。ある人が、とても愛の深い、親切な行動をしました。そうすると、単純に考えると、その人の中にある親切な愛の心、これが本質的、あるいは中心的な部分で、あとは、具体的に何をしたのか、それをどこでしたのか、というのは、周辺的な事柄だ、と言われることが多いわけですね。
もちろん、物事はこのように単純に割り切れるものばかりではありません。しかし、どこかでそのような物事の見方をする中で、私たちはいつもその本質的、あるいは中心的な部分を見分けることができているかというと、そうとばかりは言えないようです。今日の福音書の箇所を読んでまいりましょう。
単刀直入に言うと、イエス様はまずその人自身を見てくださいます。その日が何の日か、その場所がどこか、ということはあくまで二の次に過ぎません。今日の福音書の箇所を辿ってまいりますと、イエス様が教えておられる会堂――会堂とは、ユダヤ人が集まって聖書朗読をし、祈る場所のことですが、その場所に、何と18年間も病の霊に取りつかれていて、ずっと腰が曲がったままの女性がいました。イエス様の目は、その病の深刻さやこの女性がいかに苦しんでいるかに向けられます。だから、即座にその女性を呼び寄せて「病気は治った」と声をかけられるのです。
一方、物事の中心部分よりも、「それがいつか」「どこなのか」という、言ってみればあくまで周辺部分に気が行ってしまうのが、その会堂の会堂長はじめ、イエス様に「偽善者たち」と呼ばれてしまう人々です。まず、会堂長が、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言い出します。何とそれは、「イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て」ての発言でした。恐らくその言葉に同調する人々がいて、その人々が、17節にある、イエス様の言葉によって恥じ入った「反対者」でしょう。イエス様は、会堂長、そしてご自分に対する反対者を含めて、彼らのことを一言で「偽善者」と呼んでおられます。この「偽善者たち」とイエス様に呼ばれてしまう人々は、「この人物はこともあろうに安息日にいやしという労働をしている」ということで、深刻な病の中に苦しんでいる女性の思いをくみ取ることなく、ただ「この日は安息日だ。だから、病のいやしといった労働はいけないのだ」という原則の中にしか生きられないのです。もしかして、得体のしれないいやしのようなことを会堂で行った、ということにも不快感を持っていたかもしれません。自分の会堂で何ということをしてくれたのか、ということです。
そのようないわゆる偽善者たちに対して、イエス様はあたかも物事の本質を見よ、と言うかのごとく、単純な例を引き合いに出して、彼らを諭されます。安息日には労働をしてはならない、休まなければならないと言われる。しかし、もし大事な家畜、牛やろばののどが乾いている、ということであれば、あなたがたはそれらを水飲み場に連れて行くでしょう、とお教えになるのです。
このことでイエス様は、安息日にいやされたこの女性について、ご自分で「偽善者たち」とお呼びになった人たちに、次のようなことに気づくように願っておられます。「動物でさえ、あなたがたは安息日であろうとも助けようとする。それなら、まして相手は人間なのだから、助けようと思うのは当然ではないか」、ということです。それが、イエス様の「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」ということばに表れているのです。
そもそもイエス様は、律法自体は良いものであるにも関わらず、その本質を見誤り、ただそれを形式的に守る、というところばかりにこだわってしまった人間の困窮状態を救うために、律法の本質を取り戻すためにこそ、来られたのでした。ですから、律法は人を生かし、幸せにする、ということが神様のみ心としてありましたので、それが第一。だからこそ、今日の福音書の箇所のような場面に遭遇すれば、もう迷うことなく、人を生かす方向に決断され、動かれるわけです。イエス様の反対者からすれば、安息日に労働するなどもってのほか、それはすなわち律法を大事にしていないことだ、ということになるわけですが、実はイエス様としては、律法が本当に求めているところ、それによって人が生きる、ということをたいへん重視なさって、人をいやされる。それは実は、律法を大事にしている姿であるわけです。
私たちの目の前には、このように日や場所ばかり気にして人そのものを見ようとしない偽善者たちのように生きる道もあれば、イエス様のように、その人自身を大事にして生きていく道も開かれています。最初にご紹介した、親切な愛の行いのことで言うなら、その意図はわかるが、やり方がふさわしくなかった、などという評価が見られる場合には、結局は私たちは物事の周辺部分しか見ていない、ということになります。それに対して、「この際、やり方はともかく、それを行おうとした気持ちは理解したい」といったような発言が見られるようなケースであれば、何とか私たちが、出来事の中心部分を捉えよう、と試みたことを表しています。
具体的なことで言うと、今回の福音書の出来事に合わせて、誰かを助ける、というケースを想定したときに、その方法が倫理的に見てその時代、あるは場所、文化にあっていて、受け入れられやすいかどうか、ということで置き換えられると思います。たとえば、災害時のボランティア。阪神大震災以降、以前にも増して非常に活発に行われるようになったとも言われるボランティアですが、たとえばその中で、金髪にピアスの青年がいたとして、その彼が非常に甲斐甲斐しく、立派にその役割を果たしていたとすれば、私たちは彼をどのように見るでしょうか。今でこそさほど珍しいとも言えないそのようなスタイルの青年。しかし、今から27年も前の阪神大震災当時だったら、どのように人々の目に映ったでしょうか。これまたえらく派手なお兄ちゃんが一体何をしているのか、ということで、ついついその身なりなどの外側にばかり、目が行ってしまうこともなかったとは言えないと思います。
そのようなことを超えて、何とか物事の大事な部分を見ようとするか、そうでないか、どちらを選ぶのも自由です。しかし、イエス様に導かれて物事の本質を見、イエス様が人を大事になさったように、私たちもまた人を大事にしていくとき、「群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」とあるように、私たちも喜びを経験することができるのです。
これはある意味で、私たちが「喜びの共同体の中に生きる」ということを意味していると思うのです。イエス様の周りには群衆がいました。そこに、喜びの声が上がる。一つの共同体の中で、人と人とのつながり、ひいてはイエス様と人とのつながりの中で、喜びが沸き起こるのです。今朝の福音書の箇所では、束縛からの解放が、喜びをもたらしています。現代にも同じようにイエス様は、束縛からの解放を訴える福音によって、喜びをもたらそうとなさいます。あたかもイエス様が、「いっしょに喜ぼう」と呼びかけておられるかのようです。その招きに応じて、私たちもイエス様といっしょに喜ぶ生活へと導き入れていただきましょう。
お祈りいたします。
天の父なる神様。
この朝も週の初めの日の礼拝へと私たちをいざなってくださり、
みことばによる語りかけの時をありがとうございます。
とかく物事の本質を見誤りやすいのが人間です。
しかし、その人間を、あなたは深く愛されました。
だからこそ、私たちのもとに御子イエス様を送ってくださり、
感謝いたします。
物事の中心を見なければならない、
という迫りではなく、
それを見ていけば、喜びにあずかることができる、
という良い知らせを今日も示してくださり、
感謝します。
イエス様が私たちを招いておられるその喜びの世界に、
共にあずかることができるように導いてください。
毎日の歩みの中に起こる様々な困難の中でも、
私たちが物事の本質部分を見分ける目を持ち、
諦めずに、あなたに頼って歩みを続けることができますように導いてください。
この暑く湿度の高い、コロナも流行っている夏ですが、
その中で、具体的に私たちを助けてください。
主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【報告】
・新型コロナウイルスの感染が広がり続けています。充分気を付けてお過ごしください。
・夏期献金の時期となっております。
・9月には、池上安牧師の説教があります。
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