2026年9月27日 聖霊降臨後第18主日
聖書交読 詩編25編1~9節(旧約p855)
司)1:【ダビデの詩。】主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み
会)2:わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。
司)3:あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。
会)4:主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。
司)5:あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。
会)6:主よ思い起こしてください/あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。
司)7:わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず/慈しみ深く、御恵みのために/主よ、わたしを御心に留めてください。
会)8:主は恵み深く正しくいまし/罪人に道を示してくださいます。
全)9:裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。
聖書朗読 フィリピ2章1~11節(新約p362)
1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
説教 「全てにまさるキリストの御名」
説教に先立ち、皆さんを祝福する短いお祈りをいたします。最後はご一緒にアーメンとご唱和ください。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
恵みと平安があなたがたにありますように。アーメン
来週は予算総会となります。そのような時の礼拝では、今年の御言葉を開くことが多いです。来週も、その例に倣って、今年の御言葉であるフィリピの信徒への手紙4章6節を含む箇所を開く予定です。今日はその、ある意味での導入として、聖書日課から使徒書であるフィリピ書の箇所、2章1節から11節を開いております。
ここには、「キリストの謙卑(けんぴ)」という大事なテーマがあります。「謙遜」の「謙」と「卑下」の「卑」で「謙卑」で、キリストの謙遜、自ら身を低くされること、という意味です。これはむしろ、私たち信徒側の徳として、求められるものではないでしょうか。しかし、キリストは、自ら進んで身を低くされました。だからこそ、逆に高く上げられた、というのが、今日の聖書の箇所の要点となります。少しずつ見てまいりましょう。
フィリピと言えば、ヨーロッパにおける最初の教会が立てられた場所でした。パウロは、その教会の信徒たちへ手紙を送るに際し、ローマの獄中から挨拶を送り、彼らのために祈りをささげています。獄中において、なかなかできることではありません。そして、たいへん有名な、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(1章21節)という、魂の言葉を書き送っています。そして、新共同訳の小見出しでは「キリストを模範とせよ」と掲げられている本日の箇所、2章1節から11節に至るのです。
1節を改めて読んでみましょう。
1:そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
とありますが、ここでは、フィリピの信徒たちの中に「あってほしい」、とパウロが願うものが記されています。それは、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心」と言われています。2番目の「愛の慰め」は、「キリストの愛の慰め」とも考えられます。ですから、最初の2つが、キリスト由来のものです。キリストによる励まし、そして、キリストの愛による慰めです。私たちも、キリストから励まされ、その愛によって慰められるのです。このキリストからの励まし、またその愛による慰めを、皆さん十分受け取っておられるでしょうか。
3番目の「“霊”による交わり」ですが、引用符付きの「霊」は聖霊のこと、と受け取っていただいて問題ありません。聖霊による交わりと言えば、礼拝の祝祷の言葉のもとになっている第二コリント13章13節、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」の中の「聖霊の交わり」を思わせます。それに揃えると、先ほど1節にある「愛の慰め」をキリストの愛による慰め、と解釈しましたが、この第二コリントの最後にある祝祷の言葉を参照するならば、これは神の愛による慰め、とも言えるかもしれません。そうするならば、ここにも、「キリストによる励まし、神の愛の慰め、聖霊による交わり」というように、三位一体の祝祷の言葉に似た言葉が並んでいることにもなります。残りの「慈しみや憐れみの心」もまた、この三位一体の神様から流れてくる、そしてそれらが、フィリピの信徒たちの間にあるなら、とパウロは述べています。
続く2節、
2:同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
において、パウロは「こうであってほしい」という願いを述べます。三位一体の神様からくる励ましや愛、交わり、慈しみや憐れみを十分に受けているなら、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」する教会であってほしい、そのような願いを、パウロは孤独な獄中から書き送っているのです。
人が孤独な獄中において、後ろ向きで否定的な思いになりがちな中で、パウロの思い描く幻は実に壮大です。フィリピの教会の信徒たちが一つになっていたら、私の喜びは満たされる。パウロが獄中にあって、喜びを意識していたことは驚きです。来週開く箇所にも、「喜び」について書かれています。
3節には、
3:何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
とあります。文章が途中ですが、まず3節だけ言見ていきましょう。ここで私たちに問われているのは、「相手を自分よりも優れたものと考えることができるか」ということです。これは、ただ自分を卑下するわけではありません。日本人は、自分を卑下することは得意かもしれませんが、これは自分の価値をしっかりと認めたうえで、相手も認める、という姿勢です。自分も〇、相手も〇。そのうえで、相手を優れた者と認める、ということです。
そのうえで、4節ですが、
4:めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
とパウロは勧めます。そして、このように言う根拠、土台として、5節以下に、本日のテーマであるキリストの謙遜についての文章が続くことになります。
ここでの大事なポイントは、「自分のことだけでなく」という視点です。社会が混迷を極めると、自分のことだけになりやすいのは自然なことだと思います。アメリカとイラン、そしてイスラエルとイランの間の、中東戦争とも言うべき戦争状態から、ホルムズ海峡の通過が困難となり、その影響で、様々な物資の値上がりが続いています。そのような中では、世界中で、「まず自分が必要な分を確保しよう」と、「まず自分が」という姿勢になってしまうのは、致し方ないことではありましょう。ますます日々の暮らしにおいて負担感が増していく中で、それでも「まず自分が少しでも得をする」ということを主眼に、日々あくせくする、ということも、誰も責めることはできないと思います。
ただ、そのような中にあっても、「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」とパウロは冷静に勧めます。私たちにも、そのような冷静さが必要でしょう。そして、その他人を優先する姿勢、生き方、というのは、単に倫理的、道徳的生き方、ということでなく、キリストの姿勢に根ざすものなのだ、とパウロはキリストとの関係をここで持ち出しているのです。
5節で
5:互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
と前置きをしたうえで、6節から8節でパウロは、
6:キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7:かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8:へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
とキリストの姿を描き出しています。
6節の「神の身分」は、「神の形」とも訳されます。いずれにしても、7節に言われている、「人間と同じ者」になった、というところが大事です。神と等しい、神のご身分だった方、すなわち100%神であられた方が、100%人間になられた、ということです。さらに7節の終わりでは、「人間の姿で現れ」と繰り返して念押ししています。
8節では、キリストが十字架の死に至るまで従順だったと、キリストの謙遜の姿を、「従順」という言葉に結び付けて述べられています。この従順は、キリストが、ご自分の地上でのご生涯に関して、十字架に至るまで、その成り行きに身を任せ、敢えて抵抗なさらなかった、ということも意味しています。もちろん、ここに言葉を付け加え、キリストを人々の救いのために世にお遣わしになった父なる神様に対して従順であった、と解釈することもできます。
成り行きに身を任せる、と言うと、消極的な、何もしなかった、というようなイメージがあるかもしれません。しかし、その行き着く先が十字架の死である、と考えると、少し考えが変わります。流れに身を任せて、それで痛くもかゆくもないところに至るのであれば、何もせずに、何をしてたのですか、ということにもなりますが、その行き着く先は死であったのです。しかも、当時の刑罰としての、死刑としての十字架ですから、これは痛いこともさることながら、たいへんな恥、ということでもありました。日本と同じ恥の文化にあった当時のイスラエルにおいて、それは避けるべき事でしたし、いくら「成り行きに身を任せるのです」と言っても、「いくらなんでも、それはないのではないですか」と、周りからもいろいろと言われて、妨げが入る、ということも考えられたわけです。ですから、何にもしないまま、流されていって十字架に行き着いた、というのではなく、それはかなり意志を持って、そこに向かうのだ、という決意を伴った十字架、ということだったことを、私たちは理解する必要があります。
私たちは、キリストは、それを目指してこの世に来られたのだから、十字架は当たり前だったのだ、とは思いません。それは、100%人間になられたキリストにとっては痛くてたまらないことだったし、死は恐怖だったし、それでキリストは、十字架の直前にゲツセマネの園で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26章39節)と祈ったのです。
このような大きな犠牲を払われたからこそ、9節で、
9:このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
と言われる、偉大なる逆転現象が起きたのです。ここでの重要なポイントは、キリストは「謙遜によって、高く上げられ、すべてにまさる名が与えられた」ということです。
続く10節と11節はつながっていて、
10:こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11:すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。
と高らかに父なる神様をほめたたえます。この背後には、イザヤ書45章23節、24節があると言われることがあります。そちらの方も、読んでみましょう。
わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば/その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ/すべての舌は誓いを立て
恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。(イザヤ45章 23節、24節)
フィリピ書の方の、すべてのものがイエス様の御名に「ひざまずく」というところと、イザヤ書の「すべての膝はかがむ」が似ており、そして、フィリピ書の方の「イエス・キリストは主である」という公けの宣言と、「恵みの御業と力は主にある」という誓いが似ています。このような比較をヒントにすると、私たちにとってこのフィリピ書におけるキリスト告白、すなわち「イエス・キリストは主である」との宣言は、「恵みの御業と力は主イエス・キリストにある」、という意味の告白でもあった、とも言えるのではないでしょうか。
キリストの恵みの御業、それは何と言っても、十字架において両手を広げ、私たちを受け止め、私たちのすべての罪を受け取って、それを十字架で打ち滅ぼしてくださった恵みです。その力は死を打ち滅ぼし、私たちに永遠の命の希望をもたらすものです。もちろん、日々の暮らしを地道に堅実に生き抜く力をも与えてくださいます。
私たちは、全てにまさるキリストの御名をほめたたえます。それは、このキリストこそ私のすべて、私にとっていちばんの存在、と告白することでもあります。この方こそ、私たちにとって、恵みの御業をなさり、私たちに力を与えてくださる主です。
そしてもうひとつ、私たちにとって、この全てにまさるキリストに対して「イエス・キリストは主である」と告白することは、このキリストを、旧約聖書で長らく「主」と呼ばれてきた方と、同一の存在として受け入れる、ということでもあります。これが、フィリピの教会の信徒たちが受けたインパクト、衝撃を、私たちも受け継ぐことになるのです。パウロがフィリピの信徒たちに「イエス・キリストは主である」、と書き送ったとき、それを読んだフィリピの信徒たちには、衝撃が走りました。旧約聖書で長らく「主」と言われてきた方と、イエス・キリストが同一である!恐らくこれは、私たちが想像する以上の衝撃、インパクトだったのではないでしょうか。またそれは、当時ローマ世界にあって、ローマ皇帝こそ主である、と言われていた中で、いや、イエス・キリストこそ主なのだ、というメッセージのインパクトももたらしました。全てにまさるキリストは、このように偉大です。このキリストの十字架の恵みの御業と、私たちを生かす力に感謝し、身を低くして互いに仕え合い、「イエス・キリストは主である」と告白して、混迷する現代社会を生き抜いてまいりましょう。
お祈りします。
恵み深い父なる神様。あなたは、私たちの救いのために御子イエス・キリストを遣わし、主は自ら身を低くされ、十字架の死に至るまで従順に歩んでくださいました。その大きな恵みを心に刻み、感謝いたします。
どうか私たちが、自分のことだけに心を奪われることなく、互いに相手を大切にし、へりくだって仕え合うことができますように。困難な時にも、キリストによる励ましと慰め、聖霊による交わりの中にあることを覚えさせてください。
「イエス・キリストは主である」と告白し、十字架の恵みと復活の力に支えられて、混迷するこの時代を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
報告
・先週は礼拝後に新約聖書の学びがありました。本日は午後1時から、三浦綾子読書会があります。西村久蔵の伝記、『愛の鬼才』を読んでいます。今日は第三章です。




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