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執筆者の写真明裕 橘内

続・毎日の黙想「コロナの時代を生きる」2022年3月24日(木)

16:だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。

17:わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。

18:わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。

(コリントの信徒への手紙二 4章 16~18節)


「内と外」と言うと、やはり「内面性重視」など、「内」の方が重視されることが多いのではないでしょうか。今日の聖書の箇所でも、やはり「内」の方がたいせつにされています。しかも、私たち人間に「外なる人」「内なる人」があり、そのうち「内なる人」は「日々新たにされていきます」(16節)ということで、これは今年の御言葉の土台となる「慈しみと憐み」が「朝ごとに新たになる」(哀歌3章23節)と言われていることと共通しているように思います。


次いでパウロは驚くべき発言をします。「わたしたちの一時の軽い艱難は・・・」(17節)。何ですって?一時の軽い艱難?いえ、私たちはそれを重過ぎて担えないと、イエス様のもとにやってきたのです。しかし、パウロは自分自身大いに苦しんだ人物で(「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く・・・」コリントの信徒への手紙二 11章23節)、苦しみというものを軽くとらえていたわけではありません。しかし、パウロはすでに永遠のものを見ていました。その尺度からすると「軽い」、ということだったのです。


18節でパウロは、「見えないものは永遠に存続する」と打ち出しています。これなのです。往々にして、私たちは目に見える、目先のことで悩んでいる。そうではなく、目を前に向けるのだ。そこに、限りない永遠の世界が広がっている。それから見れば、今の苦労は小さく見えないか?これが、パウロの言いたいことだったのです。見えるものに一喜一憂する生活から、私たちはイエス様の十字架によって贖われました。あとは、目の前に広がる永遠の世界に憧れ、それに目をとめて毎日を過ごすのです。




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