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執筆者の写真明裕 橘内

続・毎日の黙想「コロナの時代を生きる」2022年3月8日(火)

【本日のみことば】

5:また、神は昔の人々を容赦しないで、不信心な者たちの世界に洪水を引き起こし、義を説いていたノアたち八人を保護なさったのです。

6:また、神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました。

7:しかし神は、不道徳な者たちのみだらな言動によって悩まされていた正しい人ロトを、助け出されました。

8:なぜなら、この正しい人は、彼らの中で生活していたとき、毎日よこしまな行為を見聞きして正しい心を痛めていたからです。

9:主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。

(ペトロの手紙二 2章 5~9節)


私たちは、「神は全能である」と言います。では、具体的に、どういったところが「全能」と呼べるのでしょうか。


ペトロは旧約聖書の土台のある読者たちに、創世記の出来事を振り返り、救いについて教えています。ただ、割と厳しいトーンなのです。それは、「不信心な者」と呼ばれる人々への厳しいさばきについても、書かれているからです。


ここでは、ロトのエピソードが紹介されています。ロトをソドムとゴモラの町から救い出したのは神様でした。ロトが、その町で心を痛めていたからです。


そうすると、神様は正しい人を助け出すだけでなく、同時に正しくない人々をさばかれるのです。これを同時になさるのです。これはさすがに神様しかできない。人間では、救いなら救い、さばきならさばきに偏ってしまって、結局片手落ち、ということで終わってしまうことになるのではないでしょうか。そう簡単に、もう一方のことにまで頭が回りません。そこを、神様はいっぺんにやってしまわれる。救いもさばきも、しっかり区別したうえで同時になさってしまう。これこそ、神様が「全能」であることのひとつの表れなのではないでしょうか。このような素晴らしい神様に救っていただいているのですから、この世の中でどんなに苦しもうと、その救いは確かです。


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