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  • 執筆者の写真明裕 橘内

続・毎日の黙想「コロナの時代を生きる」2022年3月4日(金)

更新日:2022年4月10日

【本日のみことば】

35: 人々が、『だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか』と言って拒んだこのモーセを、神は柴の中に現れた天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになったのです。

36:この人がエジプトの地でも紅海でも、また四十年の間、荒れ野でも、不思議な業としるしを行って人々を導き出しました。

37:このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』

38:この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。

39:けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、

40:アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』

41:彼らが若い雄牛の像を造ったのはそのころで、この偶像にいけにえを献げ、自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました。

42:そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました。それは預言者の書にこう書いてあるとおりです。『イスラエルの家よ、/お前たちは荒れ野にいた四十年の間、/わたしにいけにえと供え物を/献げたことがあったか。

(使徒言行録 7章 35~42節)



今日の聖書箇所は昨日の箇所の続きで、ステファノがその弁明の中でモーセの生涯を語っているところです。


昨日同様、今日の日課の箇所にも、今過ごしている「四旬」(四十)節とのつながりで、「四十年の間」(36節)というように、四十という数字が用いられています。


昨日の四十年は、モーセ個人の、荒野に逃亡し、身を隠している四十年でした。今回は、神の民の不信仰のゆえに、民全体が経験する荒野の四十年のことを指しています。そして、モーセはその期間、民を導いたのです(36節)。それに際しては、モーセは「不思議な業としるし」(36節)を行うことがしばしばでした。


ところが、そのような導きがあってもなお、「先祖たちはこの人に従おうとせず・・・」(39節)とあるように、イスラエルの民はモーセに逆らいます。律法の石の板を神様から受け取るために山に入って行ったモーセがその後どうなったかわからない、となると、この時とばかりに、偶像を造って、よりによってそれに献げ物をしていたのです(41節)。


モーセはそれを知り、悔しかったかもしれませんし、落胆もしたでしょうし、大いに心が揺るがされたように思います。神様はどうだったのでしょうか。モーセと一緒に腹を立てたのでしょうか。いえ、むしろ神様の方が冷静のようにも思えます。42節に、「そこで神は顔を背け、彼らが天の星を拝むままにしておかれました」とあります。神様はモーセではないのです。ここでは、ご自分の思うようになっていない、とわかれば、即座に人間の方を向くのをやめ、顔を背けてある意味で人間を放っておかれるのです。これは、いわば神様とのつながりが断たれるようなもので、どんな裁きよりも怖いのではないでしょうか。


これはいくらなんでもひどすぎる、と私たちは言うことはできません。所詮人間はこのようなものなのです。しかし、ここで終わらないのも神様です。その慈しみも憐みも尽きることがないという神様は、私たちが神様の怒り、いや、それどころか神様が顔を背けて無視することにふさわしい存在であるにもかかわらず、それをわかったうえで、ご自分の慈しみのゆえにもう一度憐れんでくださり、今はこうして、救い主イエス様の救いが与えられ、神様とのつながりが回復した者へと変えてくださいました。これは一方的な神様の憐れみであり、私たちに何の根拠もありません。今の世界情勢を見ても、何と人間は愚かしいか、罪深いかということを思わされますが、それでうなだれて終わり、ではなく、再び心を励まして神様を待ち望む者として日々過ごしたいものです。

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