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執筆者の写真明裕 橘内

続・毎日の黙想「コロナの時代を生きる」2022年3月28日(月)

【本日のみことば】

1:その後、わたしは、大群衆の大声のようなものが、天でこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。 2:その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで/地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、/御自分の僕たちの流した血の復讐を、/彼女になさったからである。」 3:また、こうも言った。「ハレルヤ。大淫婦が焼かれる煙は、世々限りなく立ち上る。」 4:そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。「アーメン、ハレルヤ。」 (ヨハネの黙示録 19章 1~4節) 人気アーティストが、自分の作品のインスピレーションを求めて自らの信念とは異なる世界に身を寄せ、「ハレルヤ」という言葉を歌詞に入れるのは、作曲家を夢見ていた中学生時代の私が、その頃はクリスチャンでもなかったのに、クリスマスにふさわしい曲の題材を聖書に求めたことからすると、理解できないことではありません。 しかし、このところで「ハレルヤ」(1節)あるいは「アーメン」(4節)と言われるのは、もう少し異なる世界においてのことです。ローマによる迫害によって、本当に自分が伝えたいことを、「幻」という形で隠さなければならなかった時代。ヨハネは、「福音書」を書いていた自身の穏やかな時代を振り返りながら、どうして時代はここまで変わらなければならなかったか、嘆いていたでしょうか。 この、一見すると何を書いているのかわかりにくい一連の文章は、キリスト教がローマ帝国によって迫害されながらも、なおも戦い続け、礼拝を続けているしたたかな姿です。そこには嘆きの影すら見られません。「大淫婦が焼かれる煙」(3節)。激しい迫害の中で、自身パトモス島に流される過酷な現実の中でも、「大淫婦」になぞらえられるローマが最終的には敗北することを幻に見ていたヨハネ。その確信の根拠となったのは、冒頭の 「救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの」 という短い一文、賛美の告白でした。 勝利を取るのはローマではない。かと言って、イスラエルであるとか、ほかの地上の国ではない。すべての勝利は、私たちの神にある。そのように、ヨハネは信じていたのです。その確信のもとに、彼は「ハレルヤ」(主を賛美せよ)と叫んで主を賛美したのであり、「アーメン」(その通りです)と、自身の信仰を表明したのです。思い通りにいかない過酷な現実の中で、自分をも見失いそうになりながらも、私たちは迫害下のヨハネとともに、「ハレルヤ」「アーメン」と主を賛美し、すべての勝利である神様とのつながりを改めて確信し、今週も一週間の戦いの中に入って行くのです。

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