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執筆者の写真明裕 橘内

続・毎日の黙想「コロナの時代を生きる」2022年3月23日(水)

【本日のみことば】

2:わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。神に逆らう者が目の前にいる。わたしの口にくつわをはめておこう。」

3:わたしは口を閉ざして沈黙し/あまりに黙していたので苦しみがつのり

4:心は内に熱し、呻いて火と燃えた。わたしは舌を動かして話し始めた。

5:「教えてください、主よ、わたしの行く末を/わたしの生涯はどれ程のものか/いかにわたしがはかないものか、悟るように。」

6:御覧ください、与えられたこの生涯は/僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも/すべて空しいもの。

(詩編 39編 2~6節)


今日は、詩編作者の「私の口で罪を犯すまい」という緊張感がひしひしと伝わってくるような言葉を共に開いております。


人それぞれ、「これだけはどうしても避けたい」ということがあるものです。ある人は、夜9時以降に食べ物を口にすることを絶対に避けようとしますし、ある人は、睡眠時間が6時間を切ることを何としてでも避けようとします。


ところが、それぞれ思いとしては素晴らしいのですけれども、その緊張感と言いますか、切迫感と言いますか、それが気になります。人はだれもゆったりした、くつろいだ状態で「絶対これだけはしないように」などとは思わないものです。心の動きとからだの動きはある程度連動しており、心の中で「何が何でもこれだけは」などと思っているときは、時には歯ぎしりするようにして、からだもそれなりの緊張状態に入っているものです。


問題は、その反動が思わぬ形で出ては来ないか、ということです。結局この詩篇作者の場合も、「口の言葉で罪を犯すことがないように」との願いのゆえに、「苦しみがつのり」(3節)、「心は内に熱し、呻いて火と燃えた」(4節)ような状態になってしまいました。そして結局は、「わたしは舌を動かして話し始めた」という結末を迎えてしまいます(4節)


しかし、ここからが違う。「このようにして沈黙を保っていたところで苦しいだけではないか」と文句を言いだすのではなく、開口一番「教えてください、主よ」と主なる神様に向けて言葉を発しているのです。実はこれは、御言葉を語るが故の苦労のあまりもう語らない、と決めたエレミヤが、語らないでいるのにも耐えられずに再び語りだした時、主に向かって語っていたのと同じです(エレミヤ書20章7節以降を参考のこと)。


「自分を律しよう」とする古い考え方、日本人もつい陥りがちですが、それには限界があり、私たちの主なる神様は私たちが束縛の中に苦しむのではなく、むしろ神様のほうに目を向けることを望んでおられます。そして、つい先走って「教えてください、主よ、わたしの行く末を」と尋ねた件に関しては、「それは今知らなくてよい」とばかりに、沈黙を保ってくださいます。これは、行く末を知ったばかりに却って落胆する、ということから私たちを守ろうとしておられるご配慮でしょう。この詩編では、言葉数が多く、何かと慌ただしい雰囲気の詩編作者に対し、神様の動きは実にゆったりしているように思えます。「そんなに焦らなくてもよい」とおっしゃっておられるかのようです。私たちもゆったり構えて、落ち着いて主を信じ、その憐みによりすがって、毎日を送ってまいりましょう。


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