top of page
執筆者の写真明裕 橘内

続・毎日の黙想「コロナの時代を生きる」2022年3月18日(金)

【本日のみことば】

2:目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。

3:だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。

4:しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。そうするにふさわしい者たちだからである。

(ヨハネの黙示録 3章 2~4節)


二日連続で、黙示録の御言葉を開いております。


以前、『新改訳2017』という新しい翻訳の「旧約」において、「悔い改める」という訳語がもはや使われていない、ということをお話ししました。今日の聖書箇所は新約聖書の御言葉です。そこには、私たちの使っている『新共同訳』において、「悔い改めよ」という言葉が出てまいります(3節)。新しい新改訳2017ではどのように訳されているのでしょうか。


その部分を調べてみると、何と新改訳2017側も、ここで「悔い改め」という訳語を使っている、ということがわかります。確かに、旧約と新約では使われている原語も異なりますから、このような現象が起こっても不思議ではありません。「シューブ」という、「帰ってきなさい」あるいは「帰っていきなさい」という意味のヘブル語と、自分の罪の醜悪さを修正していく、という意味もあるギリシア語の「メタノイア」では必然的に訳語が異なる、ということなのでしょう。「悔い改める」という言葉の語感から来る重圧からまぬかれるように、と旧約で「立ち帰る」という訳語を使ったのなら、新約も同じにした方がよかったようにも思います。


いずれにせよ、3節で命じられている「悔い改めよ」は、悔いることでも、自分の力で改めようとすることでもなく、「心の一新によって自分を変えなさい」(ローマ12:2、新改訳)という御言葉が求めていることに近いように思います。3節にあるように、「どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き」(恐らく御言葉のことだと思いますが)、自らを常に新しくしていただいて、神様の前に出るのです。


少し厳しいようにも思えるこの箇所ですが、慰めもあります。神様はわずかながらでも衣を汚さなかった人たちを備えていてくださり、その人々は白い衣を着て神様と共に歩くことができる、という約束です。そのような恵みがあるならなおのこと、慈しみと憐みが朝毎に新しいように、私も日々新しい存在として神様の前に出て、神様と共に歩む歩みを楽しみたいと思います。


閲覧数:21回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Komentarze


bottom of page