【本日のみことば】
4:ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。
5:しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。
6:同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。
7:「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
8:主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」
(ローマの信徒への手紙 4章 4~8節)
「信仰」と言うと、意味が広すぎて捉えきれない、という感じすらします。加えて、「義とされる」「義と認められる」もまた容易に理解できる言葉ではないので、今日の聖書の箇所などは、「いい御言葉だな」ぐらいで通り過ぎてしまいたくなります。
まずここで示されているのは、「神様は、『不信心な者を義とされる』方である」、という揺るがぬ真理です。そして、人は、一切何の働きがなくても、神様をこのように信じさえすれば、義と認められる、と言われています。
基本的に、義と認められるとは、私たち人間が、「神様の前で一切罪を犯したことがないかのように見ていただける」、という幸いです。そうすると、人間ではなく、神様を信じる、その「信仰」が義と認められる、とは、どういうことになるのでしょうか。そこで、5節を言葉を加えながら読んでみましょう。「不信心な者を罪なき存在とみなしてくださる方を信じる人は、どんな働き、あるいは律法のわざがなくても、神様をそのように信じる仕方に全く罪(や落ち度)が見られない、すなわち非常に良い信じ方をしている」ということになるのではないでしょうか。すなわち、神様を、不信心な者を義とされる方だと信じるのは、正しい信じ方である、ということになるのです。
ダビデもこのような、行いによらずに神様の前に罪なしとみなしていただける幸いを知っていた、というのですから驚きです。すでにこのような信仰は、旧約聖書の時代から見られた、ということです。ここでは、「罪が覆い隠される」(7節)というフレーズが重要で、罪は消されてしまうのではなくてそこにあり続けるのだが、ないかのように見なされる、という重要な真理を指摘しています。考えてみれば「罪がないように見なされる」というのも、「ない」と言っているのではなく、「あるのだけれども『ないかのように見る』という意味です。この点で、私たちはへりくだる必要があります。しかし、「あるのに、ないかのように見てくださる」とはたいへん魅力的で、それに憧れ、そうなるのだ、と期待するのが「信仰である」、と言えるのではないでしょうか。今週もこのような信仰が与えられていることに感謝して、進んでいきたいと思います。
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